190.野薔薇

【訳詞:近藤朔風さくふう1909年 明治42年) 

原詩:ゲーテ(1770年頃) 作曲:シューベルト (1815年)

 

ゲーテとシューベルトの合作である。この二人ならば文句のつけようがないだろう。このゲーテの詩にはシューベルトのほかウェルナーなど100人近い人が曲をつけているらしいが、なんと言ってもこのシューベルトの曲が多くの人に親しまれている。

私がこの曲を知ったのは小学校六年のころ、映画「野ばら」でウイーン少年合唱団を見てからだ。幼心に、あの透き通るような歌声にあこがれた。あのような素敵な歌声が出せたらと、日曜学校では賛美歌を一生懸命練習した。ヴァイオリン教室にも通っていた。あの頃は純粋だった。そのまま行けば今頃はクラシックの声楽家になったかもしれないが、現実にはなかなかそうは行かない。

色気づいた中学生のころには海辺でだっこちゃん片手につけてウクレレでハワイアンなど口ずさんでいた。

高校の頃はベンチャーズのコピーバンドを結成、大学ではフォークソングという具合にどんどんクラシックから遠ざかってしまった。

ところが、4年ほど前にMの家で音楽仲間が集まったときにメンバーのヴァイオリンをちょっと借りて弾いてみた。約50年ぶりのヴァイオリンである。懐かしいヴィヴァルディのコンチェルトを弾いてみた。ちょっと音痴のコンチェルトではあったが何とか音は出せた。この曲は小さな頃、毎週1回のレッスンで半年ぐらいかけてやっとできた曲だ。あの頃の体験はきっと体に刻み込まれているのだろう。

Mに誘われ、童謡や唱歌を弾き語りするようになり、なつかしい「野ばら」に再会できた。ふだんは不純な爺も、この曲を歌うときだけは、あの頃の純粋な気持ちになれる気がする。(N)

189.お座敷小唄

【作詞:不明 作曲:陸奥 明 1964(昭和39)

大ヒットの座敷もの歌謡である。一種のブームとなり、この後「松の木小唄」などが世に出て、夜の座敷や酒席での定番曲となった。1970年前後のカラオケ普及の前で、夜の町ではギターやアコーディオンの所謂「流し」で随分歌われたそうだ。軽快なドドンパのリズムに乗ってお座敷芸者との大人の恋の道行みちゆきを歌っていく。

1番の詞で「富士の高嶺に降る雪も京都先斗町に降る雪も雪に変わりはないじゃ・・・・なし・・ 溶けて流れりゃみな同じ」は文法的には「あるじゃなし」であると、当初から指摘されているが、誤用のまま今も歌われていて、ヒットとともに、それで良しとなっている。

 

昭和44,45年頃、年輩の人に連れられて千葉県柏の夜の酒席に行き、初めて芸者と同席した。仕事の関係だったので数回同じ料亭で、その都度芸者がいて大いに盛り上がったのだけは覚えている。三味線の調子で「富士の高嶺に降る雪も~」と歌ったことは云うまでもないし、そんな場に合う、それなりの話しもしたのだろう。だが何せこっちは若いのとどんなに背伸びしたところで知らないことばかり、歌の文句にあるような浮いた話しになる筈がない。ある時など「終電がなくなるから帰れ」と云われ、常磐線柏駅から一人電車に乗って、品川の家まで帰ったものだ。寒空の帰宅深夜12時過ぎである。一緒だった人はどうしたのか、考えることもなかった。

当時は柏に置屋があったのだろう、今にして思えばいい経験だったとも云える。何故かというと、今の人たちはまずそういった経験は出来ないだろうと思うからである。

それから1年後か、同じ人と今度は熱海の夜である。どういう顛末でそうなったのか全く覚えていないが、ある熱海の料亭に我ら3人と芸者3人がいたことは記憶にある。ただ酒に強くないわたくしがどうして同席していたのか不思議である。そういった座敷では、何時も「お座敷小唄」が歌われたことは云うまでもない。おかげで、それから340年経っても、忘れない否忘れることのない歌になっているようだ。またどうでもいいことだが「松の木小唄」も併せて歌ったことを記しておく。(M)

188 翼をください

作詞:山上路夫 作曲:村井邦彦 1975(昭和50)

   この歌、今は小学校の音楽の時間に歌うとのことで老若男女だれもが知っている歌になっていますが、もともとこの曲は「赤い鳥」というフォークグループが「竹田の子守歌」のB面として発売しました。俗に言うB面ヒットってやつです。フォークソング系だけでもズーニーブーの「白い珊瑚礁」、ガロの「学生街の喫茶店」、加藤登紀子の「知床旅情」もB面ヒットの名曲です。

   フォークソングと言うと基本的に自作曲でなければという妙な偏見がありますが、それは吉田拓郎以後のこと。前記B面ヒット「学生街の喫茶店」は作曲がすぎやまこういち、作詞は山上路夫。「知床旅情」は作詞作曲とも森繁久彌。

   曲を書くのと、歌を歌うのは全く別の才能だと思います。

   ポップスの世界では自作自演で最も有名なのは松任谷由実ですが、歌は決してうまいとは言えませんね。前記の「赤い鳥」から分裂して出来たグループ「ハイファイセット」は松任谷の曲を多く発表しています。「卒業写真」「中央フリーウエイ」「海を見ていた午後」等、その素晴らしいハーモニーにウットリします。

   大分遠回りしましたが、言いたいことは「餅は餅屋」、曲を作るプロの感覚と、それを歌い上げる能力は違うということです。(N)

187.白い花の咲く頃 

【作詞:寺尾智沙 作曲:田村しげる 1950(昭和25)

こういった類の曲は歌謡曲の定番で、特に日本人の純な淡い恋心への郷愁、哀愁である。

ロマンの香りがするしないに拘わらず、人には「~の頃」「~の時」と云うのが当然ある。一言でいえは「思い出」である。生きている長さが長いほどそれは多い、当たり前のことだ。それもその時の状況によって喜怒哀楽、そして失敗や赤面の思い出もあるものだが、年を取ると全てをひっくるめて「懐かしいあの頃」となるのが、嬉しいやら一寸淋しいやらである。

わたくしの「懐かしいあの頃」の思い出。中学一年の時、麻疹はしかに罹った。普通、小学校低学年までに罹り、その場合は症状の重くはならないらしいが、わたくしは随分と遅かったため、重症だったらしい。高熱で3日意識がなかったようだ。結局学校は10日間休み、登校前日に快気祝いもあったのだろう、今で云う「外食」に親父とお袋が連れて行ってくれた。

初めての洋食、つまりフォーク&ナイフでの「ハンバーグ・ステーキ」である。京浜急行品川駅ホームの下にあった「京浜百貨店」のレストランか食堂か、その時の状況は忘れようがない。味は忘れた。

そしてライスをフォークの背に乗せて食べるという、理解に苦しむ作法のあることをその時知ったのである。誰が考えたライスマナーかは知らないが、まるでフランスパンを箸でつまんで食べるが如き奇怪きっかいな作法だ。そうだろう、如何なる作法でもメシが不味くなるような作法は最悪と云わざるを得ない。世の中変なことを考える「識者」がいるものだ。

しばらくは“フォークの背”が正しいと思っていたが、仕事をするようになって馬鹿らしくてやめた。以後右手にフォークを持ち替え、凹部にライスを乗せて、ごく自然に口に運んでいる。周囲の人が“背”を大切にしていてでもある。無論作法やマナーを一概に否定するものではないが、“フォークの腹”には、現在まで疑問を抱いたことは全くない。

ハンンバークのあの頃は既に遠い世界となってしまった。(M)

186.あんたがたどこさ 【伝承わらべ歌】

   この童歌わらべうたは「手鞠歌てまりうた」として伝承されてきた。関東地方の女の子と九州から来た人の会話が軽妙なリズムで歌われる。伝承されている長い間に地方や時代の違いによりいろいろな歌詞の変化もあったようだ。

   昔の子供達は大した遊具もないものの、それでも結構たのしく過ごしていた。

   朝日新聞が「なつかしい日本の子供遊び」というテーマで1940人にアンケート調査を行った。結果は1位から順に、かくれんぼ、鬼ごっこ、缶蹴り、だるまさんが転んだ、あやとり、ゴム跳び(ゴム段)、ハンカチ落とし、メンコ、しゃぼん玉、たこ揚げ、というベスト10になった。表題の曲と同じ童歌遊びは「花いちもんめ」が13位、私の得意だった「ビー玉」は18位になっている。

   これらに共通しているのは、金がかからない、ほとんど道具も使わない、あやとり以外は団体で遊ぶ、ということだ。いまはどんな遊具もお金で買える、ということは楽しさもお金で買っている世の中だ。時代の流れなので仕方ないとは思うものの、気になるのは、パソコンゲームなど圧倒的に一人で遊ぶ子供が増えていると言うこと。友達みんなと夕方まで遊んでいた「ひろっぱ」もなくなっている。ちょっと淋しいと思うのはトシのせいだろうか。(N)